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太宰府(強者どもの夢のあと1)

.26 2014 comment(0) trackback(0)
さて、2014年も押し詰まってきましたね。前回のブログでなんだか締めてしまった感があるので残る数回は補足ということで11月初めの歴史ハイキング長崎・平戸の後に行った福岡・佐賀の旅から少しテーマを絞って書いてみたいと思います。
「強者どもの夢のあと」というテーマで日本が過去の歴史で大陸(朝鮮半島)へ進出しようとした歴史を追ってみたいとおもいます。


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歴史ハイキング長崎・平戸の旅を終え福岡の妹宅に1泊した翌日、近くの千鳥駅でトーゴさんと落ち合い、私の車でまずは宗像大社に向かいました。ここはもう何度か紹介しましたので今回はパスしましょう。古賀のICで九州自動車道にあがり大宰府を目指します。カーナビに目的地を入れるときまで私は漠然と太宰府=太宰府天満宮だと思いこんでいたのですがカーナビの選択項目の中に「太宰府政庁跡」というのを見つけ、歴史好きのトーゴさんが行きたいのはそちらかと気づき慌ててそちらを目的地にした次第。実は私も太宰府天満宮は何度も行っているのに太宰府政庁跡に行くのは初めてでした。

天智天皇が中大兄皇子の時代(663年)に唐・新羅連合軍に百済が攻められた時、百済救援のために朝鮮半島へ出兵するのですが白村江の戦いで日本軍は壊滅してしまいます。逃げ帰った中大兄皇子が最初にとった防衛の最先端基地が太宰府なのです。当時あった九州の拠点はもっと博多湾に近い場所にあったのですが、守りを重視して内陸部に拠点をさげた訳です。
太宰府の手前には巨大な城壁として水城が築かれました。この水城は東側を大野山から西側の丘陵まで繋がっていて今もその姿の一部を見ることができます。水城は、博多湾方面からの攻撃から大宰府を守るための防御線となる直線状の堀と土塁です。土塁は、高さ10メートル以上、幅80メートル、長さ1.2キロメートルあり、その博多湾側にあった堀は、幅60メートル、深さ4メートルで水を貯えていました。土塁には2箇所に開口部があり、そこに門があったことが発掘によって確認されています。土塁の内部には、御笠川から堀に水を流すための木樋が通っています。
太宰府の背後の大野山には大野城が築かれました。大野山頂にある朝鮮式山城で土塁や石垣で山頂全体を囲むように造られており、北と南のみ二重に防御されています。その中に建物が建てられていました。城内の各地域には70棟以上の倉庫を主とする建物跡が発見されています。


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大宰府には当時条坊制が敷かれていました。当時の飛鳥のような街を作ろうとしていたようです。帰り際、車から見えた通り名に朱雀通りや五条通りなどの名が見えましたので当時の通り名が今も残っているんですね。少し俯瞰してみますと水城に囲まれた条坊制の街が広がり、その1角に後に国分寺や後には太宰府天満宮などが建てられていったといったところでしょうか。太宰府天満宮のHPには「大宰府は、平城京や平安京と同じく条坊制を布(し)き、自然の山河や水城、大野城、基肄城(きいじょう)に護られた防衛都市であり、風水思想にのっとり築かれた都市でもありました。
中心部には政庁の建物が立ち並び、律令制に基づき1,000人を超える官人が働いていたといわれています。」と書かれてあります。

太宰府政庁跡はなかなか立派なもので当時、如何に凄い庁舎であったかが想像できます。


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太宰府の一角に大伴旅人の歌碑を見つけました。何の歌か分かりますか。万葉集に収められた歌は万葉仮名で書かれています。つまり当時の人の言葉を表現するのに漢字を当てたのです。その後、これを女性が崩しはじめることによってかな文字が生まれるわけです。この歌碑には「太宰師大伴卿の報凶問歌    世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり」とあります。大意は「世の中はむなしいものだとつくづく知る時、いよいよますます悲哀の感を新たにすることだ。」
大伴旅人はもともとは武人です。九州南部で反乱が起きたとき、鎮圧軍の総司令官に任命され、これを鎮圧します。そうした手柄もあり、六〇歳で正三位にのぼり、六三歳の時に太宰府の長官に任じられます。この時、妻・大伴郎女と一〇歳になる嗣子・家持も同行します。
この歌は大宰府に着任した半年後に作られています。実はこれより二ヶ月前、旅人は都から伴ってきた妻を急の病で失っています。さらにその二ヶ月後、都にいる異母弟の死の知らせが届くのです。その時に作られた歌なのです。それまでは目立った歌をあまり作っていませんがこの時から亡くなるまでの三年間にたくさんの歌を残しています。「酒を讃むる歌」の中に次のようなものがあります。「生者つひにも死ぬるものにあれば今ある間は楽しくをあらな」(生きている者は、必ず死ぬと決まっているのだから、この世にいる間は、楽しく過ごそう)・・・・・・・同感です。
当時の歌人には珍しく亡妻挽歌が一三首が残されています。
「還るべく時は成りけり京師にて誰がたもとをかわが枕かむ」
「京師なる荒れたる家にひとり宿ば旅に益りて苦しかるべし」
「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」
「吾妹子が植えし梅の樹見るごとにこころむせつつ涙し流る」
帰京してから半年後の731年従二位大納言大伴旅人は亡くなりました。歳六十七。

この話には続きがあります。この時同行した息子(旅人五〇歳の時の子)の大伴家持は後に感覚を表現する歌人として一時代を築きます。更に万葉集編纂の選者になります。この息子の手により万葉集に取り上げられることで父大伴旅人の悲しみは現代の我々にまで届くのです。

太宰府の1角に残る石碑にはこのような時間を超越した悲しい物語が込められていました。


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太宰府政庁跡の北西に国分寺跡があるはずとしばらく歩くと郊外の1角に国分寺跡がありました。聖武天皇の時代、741年の天平の詔により建てられた官寺です。当時、六重の塔が立っていたという。近くの公園にミニチュアがあるというので探して見に行った。当時の太宰府の繁栄ぶりが想像されます。

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最後にやはり太宰府天満宮にお参りしました。菅原道真のことは皆さんご存知でしょうが、少しだけ・・・・・・・
右大臣であった菅原道真は901年に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に権帥として左遷され、翌々903年に同地で薨去した。薨後、その遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)が廟を建立、天原山庿院安楽寺と号した。一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、これを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、919年に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀で、990年頃からは社号としての「天満宮」も併用された。

奈良時代には太宰府の作られた経緯から考えると壮大な城塞都市であったものが平安時代になってくると徐々にその都市としての位置づけが低下しているものと思われます。それは国際情勢にも影響があるのです。創建当時の仮想敵国「唐」は菅原道真の頃には勢力が衰え、驚異ではなくなってくるのです。実は菅原道真自身が遣唐使を廃止した当人なのです。このあとまもなく唐は滅びます。ですから多分、奈良時代には太宰府長官というのは重要な役職であったものが平安時代のこの頃になると地方の閑職に過ぎなくなっていったのではないでしょうか。だから後の貴族社会では大宰府は「左遷先」に過ぎなくなっているのですね。
それから菅原道真=善で藤原時平=悪という日本人の定着した考え方もどうでしょうか。日本の文学上で言うと異なる評価があるのです。才能豊かな道真は当然、漢文に明るいのです。当時の公式文書は当然漢文です。彼はこの信奉者でもあるのです。ところがこの頃、日本独自の仮名漢字混じり文がかなり浸透してきています。時平はこの仮名漢字混じり文の推進派であったといわれています。道真が権力を握っている限り、公式文書=漢文という形は守られたということになるのですが、それは日本独自の文字の発展を妨げたかもしれないのです。韓国は大陸繋がりで中国に近いがためにずっと官僚、文人の公式文書=漢文でした。1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」の名で公布したのがハングル文字ですが官僚、文人の猛反発によりしばらくは庶民はハングル官僚、文人は漢文という時代が続き、ハングル文字で統一され中国から解き放たれるのは後のことなのです。

九州北部の観光地は現在、どこへ行っても中国人や韓国人の観光客で賑わっています。顔つきが似ているだけに言葉の違いが大きく目立ちます。この日の太宰府天満宮もそういう状況でした。かつての争いがこの街を生んだのだと考えると不思議な気がします。


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