ノボさん その1

.30 2016 読書 comment(0) trackback(0)
秋に是非とも実現したい「読書会とはがき随筆のコラボ」のために
なにか資料を作って用意しておきたい。随筆について書きたいと思っている。
書く材料は清少納言の枕草子と正岡子規の病牀六尺である。
ここ数日、正岡子規について書き始めたらいつの間にかA4で9枚ほどに
なってしまった。まず正岡子規から紹介しておこう。
長いので2回に分けることにした。

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小説「ノボさん」読後の感想をいつか書きたいと思っていた。
朝、なにげにつけたテレビで
「英雄たちの選択 正岡子規」をやっていた。
武将が取り扱われる事の多い中で文人正岡子規に英雄とは?
不思議に思って見入ってしまった。
結核、脊椎カリエスを病んで死が間近に迫った時、
子規が選んだものはなんだったのだろう。

「ノボさん」は正岡子規と夏目漱石を描いた
伊集院静著の小説である。2016年1月15日第1刷発行
とあるからまだ刊行されて新しいが文庫本であるから
実際はその2年くらい前の上梓になるのか。
司馬遼太郎賞受賞とある。
実は正岡子規の物語は司馬遼太郎著の「坂の上の雲」にも
詳しく描かれている。ただこちらは子規と同郷で幼馴染の
主人公秋山真之、秋山好古兄弟との触れ合いが中心である。
ただ読んでいると司馬遼太郎が描いたノボさんと
印象が重なってきて、初めて読む気がしないし違和感がない。
いかに司馬遼太郎が子規という人物の描写に巧みであったか
ということであろうか。

明治という時代は近代文学の黎明期である。
新聞や雑誌、本という新しい媒体によって小説や論説が
広く読まれるようになります。
しかし当時人気のあった坪内逍遥の「当世書生気質」でも
戯文で書かれてあって、読み物が近代文学となるためには
幸田露伴、森鴎外、そして夏目漱石が小説家として
登場してくるのを待つしかなかったのです。
この本は子規と漱石がその中で果たした役割が
よく書かれていると思います。
面白いのは二人共、江戸時代の典型的な漢文の素養を
小さい頃から徹底的に学んでいることです。
子規が6歳の時、父親が病死します。母親はこの幼児に
当時最高の教育を受けさせようと決意します。
漢学を当時松山藩藩校教授であった母親の実父大原観山に、
書を松山藩祐筆を勤めた夫の兄、佐伯政房の
元に習いに行かせるのです。

ふたりは一高で初めて出会います。
最初は落語の世界、それから両者得意の漢詩、
それに和歌や俳句の話に花が咲きます。
実は子規はそれ以前に、自分が興味を持つそうした文芸を
一冊の本にまとめている。「七草集」である。
美文、俳句、短歌、詩、今様、都々逸などで構成されているが
書きたいと思った小説は結局形にならなかった。
この時期のこうした創作活動はまだまだ個人的で過去の
模倣の域を出ないのだが、彼はこの創作、編集を通じて
模倣が創作に変わっていく喜びを覚え、こうした様々な
文芸が底で繋がり合っているのを感じ、やがて
これらを現在のような近代文学の地位にまで高めていくのである。

漱石も実はこの頃、夏休み中に友人らと房総半島を旅行し
それを漢文紀行文「木屑錄」としてまとめ友人正岡子規のみに
見せるために書いている。「七草集」に対抗心を燃やしたらしい。
七草集の批評に「辱知 漱石妄批」と署し、夏目金之助が
「漱石」と号した最初である。この木屑錄は後に
「草枕」の下敷きになった。対して子規は漱石の木屑錄を
こう評した。「英書を読むものは漢籍ができず、漢籍ができるものは
英書は読めん。我兄の如きは千万年に一人である。」と褒めちぎっている。
漱石も子規も23歳、なんとも早熟ながら末恐ろしい交友関係を
楽しんでいる。

この七草集が完成した直後、子規は血を吐く。結核である。
見舞いに来た漱石に作ったばかりの俳句2句を見せた。

卯の花をめがけてきたか時鳥(ホトトギス)
卯の花の散るまで鳴くか子規(ホトトギス)

そしていう。「あしは今日より子規と名乗ることに決めたぞな。」
ホトトギスが血を吐くまで鳴いて自分のことを皆に知らしめるように
自分も血を吐くごとく何かを表してやろうという決意を子規に込めた。
子規とはそういう意味である。

一方の「漱石」は「晋書」から出典した「漱石枕流」からとったもので
自分の失敗を認めず、屁理屈ばかりを並べて言い逃れする、負け惜しみの
強い高慢な態度、人を意味する。夏目金之助は自分の頑固で偏屈な
性格に一番合った名前と考え自分の号としたことが面白い。あるいは
戒めであったかもしれない。


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子規の東京での世話人の一人が新聞「日本」を発行することになり
その文芸欄を任された子規は紀行文の傍ら俳句と短歌の欄をつくる。
と同時に俳諧の歴史、俳諧年表、俳諧人物過去帳、俳諧系統をたった一人で
調べ始める。これらの編纂だけでも大変な量である。

この時期、もうひとつの出会いがある。新聞の挿画を提供していた
浅井忠の紹介で一人の青年画家と出会う。中村不折である。
不折の作品を何度となく見ていくうちに「写生」をスケッチではなく
俳句の一手法として活用していくのであるが、濫作になってしまった。
不折に諭されたのは「あるものを見たままに描くのでは写生になりません。
見た時の感想、例えば綺麗な花だと思った心を描くのが写生です。」

母と妹が上京し、一緒に生活するようになって後、従軍記者として
日清戦争を取材に大陸に渡る。しかしもう戦争は終わっていた。
しかしいいこともあった。第2軍兵站部長として赴任していた
森鴎外と数度にわたり話ができたことだ。
しかしひどい環境の中で無理がたたり帰りの船中で再び喀血、日本到着後
神戸の病院へ入院、須磨で療養生活を送る。その後、病気が少し
良くなったのを期に松山に立ち寄る。当時、松山の尋常中学校に漱石が
教師として赴任していた。あろう事か、神経質な漱石の宿に転がり込み
52日間、一緒の家で暮らす事になる。気難しやの漱石と賑やかなことの
好きな子規のなんとも不思議な友情が微笑ましい。
この家を愚陀仏庵という。毎日句会に多くの人が集まり、
2階に住む漱石も引っ張り出されたらしい。

東京に戻り、再び句会や創作活動に明け暮れる中、明治29年の正月
子規庵で初句会が開かれる。森鴎外と漱石もこの句会に出席するという
なんとも豪華な顔ぶれである。当時既に「舞姫」「即興詩人」が広く
読まれていた。当時、子規の率いる一派は「日本派」と呼ばれ
鴎外が主催した「めさまし草」が創刊に日本派の俳句が掲載されたり
新聞「日本」の文芸欄が「めさまし草」の批評を掲載したりと文芸活動は
賑わいを見せ始める。その頃、両者がともに認め賞賛した新人が現れる。
激賞されたのは樋口一葉である。

子規に最期が迫っている。
長いあいだ患っていた結核の菌が脊椎を侵しはじめ、脊椎カリエスを
発症する。起きて活動することがままならなくなってくる。
常人であるならここで本当に静かな最期を迎えるのだが、子規の凄みは
ここからなのである。


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当時、鴎外の主催する「めさまし草」に掲載された俳句は
子規が編集していた。創作された俳句だけでなく、江戸期よりの
古い俳句も掲載している。子規は過去の作品を4年かけて
「俳諧大要」の編纂も傍らで続けている。
同じ明治29年、子規が主催する句誌「ホトトギス」が編集され
翌30年の1月に句誌「ホトトギス」が松山で創刊される。
挿絵は中村不折。子規はこの頃、自分の主催する紙面や句誌のみならず
他の文芸誌の編集にも携わっている。与謝野鉄幹からも新体詩集の刊行に
ついて意見を求められている。明治33年に「明星」が刊行され、
そこから北原白秋、吉井勇、石川啄木、与謝野晶子と優れた詩人が
輩出するのである。

この頃、漱石は結婚して熊本にいる。漱石は迷っていた。
子規宛の手紙の中で、教師を辞めて文学に向かいたいと漏らす。

松山で発刊された句誌「ホトトギス」の売れ行きが芳しくない。
柳原玉堂の編集に無理があった。高浜虚子に編集を引き継ぐよう
依頼、明治31年東京版「ホトトギス」が発刊。子規は俳句、句評、
短文9本を執筆した。この創刊号に漱石に執筆依頼をしていなかったこと
に気づいた子規は次号への執筆の依頼をする。これが後に漱石を
小説家にすることになる。
が当の漱石は熊本にいて進路に迷い、妻の精神状態の不安定さに悩み、父と
長兄に借金して大学へ進んだその時の負債の重さに耐えるように生きていた
漱石にとって文学の世界でのびのびと活躍している子規の姿は
眩しく輝いていたに違いない。漱石の日常は彼が後に小説の題材にした
ような出来事で埋め尽くされていたのである。

明治31年、新聞「日本」に「歌よみに与ふる書」と題した
短歌の現状とこれまでの和歌に対する先鋭的批評文を掲載し
紀貫之や古今集をこき下ろしたのである。大反響を巻き起こした。
しかし、反論には紙面で丁寧に対応した。その読者に伊藤左千夫、
長塚節がいる。この紙面に反応した若者たちから「アララギ派」が
生まれることになる。明けて32年、ホトトギスの発行所から
長年かかってまとめ上げた「俳諧大要」が出版される。


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つづく



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