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身近だった西南の役

.11 2014 日記 comment(2) trackback(0)
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先日、家内の一年忌の日程の相談をしようと私の本家に当たる神主さんへ電話をした。日程を6月末で決めたのだが、今から西南の役の戦没者慰霊祭に行くのだという。聞けば毎年この桜が散る季節に慰霊祭を行ってきたのだという。私の家から歩いて10分位の場所にお墓と石碑があることは前々から知っていた。神主さんは我々の家系も関係があるという。聞けば私の父の祖父がこの戦いに参加していて、無事帰還したから我々が存在しているのだという。ちょっと吃驚した。庭仕事を一時中断して慰霊祭の様子を撮影しに出かけた。

父が作った家系図を調べると父の祖父は大正4年(1915年)66歳(64歳)で亡くなっている。明治10年(1877年)が西南の役である。計算すると曽祖父は当時26歳ということになる。図書館へ行って串間市史を借りてきて調べると1番隊から5番隊まで総勢314名が出征しており、その1番隊132名の名簿の中に曽祖父の名前を見つけた。

宮崎県なのに何故?と思い、調べると明治2年廃藩置県で宮崎から北が美々津県、串町地区は都城県に編入される。明治6年美々津県と都城県は廃止され宮崎県が誕生する。ところが明治9年、宮崎県は廃止され鹿児島県に併合されるのである。そして明治10年、西南の役は政府尋問のためという名目で13,000人の西郷軍が北へ向けて進発することで始まった。福島隊(串間の部隊)は当初、豊後より京都へ上ると聞かされていたが美々津に駐屯している時、桐野利秋より援軍要請を受け急遽、山越えで美々津ー小林ー飯野ー人吉ー八代ー熊本へ向かう。
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配備されたのは熊本市の白川に架かる安政橋の守り、政府軍に急襲され大激戦の末死傷者50名に及ぶ。ちなみに先に故郷を出た1番隊の総勢は132名である。この日白川の渡河攻防はいたるところで繰り広げられたが次第に政府軍に追い詰められていく。大山県令の逮捕と東京護送を契機に福島隊は解体、帰宅する。ところがこの後日向に敗走中の桐野利秋から「士族17歳以上40歳以下は強弱を論ぜず、平民は強壮なるものを選び、もし拒むものは敵と見做し軍法に処す」との厳しい募兵参軍の要請に抗しきれず、1番隊は外ノ浦、2番隊は金谷、3番隊は湊、4番隊は下千野と現在の市域の番兵をし新たに77名が出軍した。その後政府軍は鹿屋、志布志と進軍、志布志の士族はほとんど出兵したため志布志の商兵200名を支援するため福島隊100名が志布志へ出兵するも大挙して押し寄せる政府軍に抗しきれず死傷者を出しながら遁走する。遁走する地元兵の後を追って政府軍がこの串間を制圧していく。地元の人々にとって正に驚天動地の出来事であった。九州の果てのこんな田舎町がかつて戦場になったのである。

以上が明治10年、九州の片田舎で起きた出来事(歴史的事件)である。今まで関係ないと人ごとのように眺めていた歴史に自分の曽祖父が巻き込まれていたことを知り過去が鮮やかな色彩を帯びて蘇ってくる。歴史はその流れの中に大きくえぐられた傷をつけていく、その傷は生き延びたものが埋めていくのだがその傷跡は次第に色や臭いを失い、モノクロの文字の羅列に変わっていく。一方でこうして今でも僅かの人々が歴史の傷跡をそっと優しく撫でていく。今年も桜が咲いた。その桜が散る頃、高齢化した僅かの家族が今でもこうして慰霊祭を営んでいる。

逆のことも言えるのだとふと気づいた。身の上に起きた事件は身近な歴史のスパンの中では狭すぎる故か決して癒されることはないのだが長いスパンで俯瞰することによって癒される事がある。自分の人生を長い歴史の極小点にしてしまうと私は一瞬だがまるで仙人にでもなったような気がするのである。



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