FC2ブログ

歴史ハイキング-南北朝時代の吉野 6

.24 2011 ハイキング comment(0) trackback(0)
1104160118_convert_20110421224950.jpg

 クライマックスは突然やってきた。トイレで遅れた人がいてトーゴさんは待つことになった。先行組みは吉水神社で待つことになった。私は知らなかったのだが、ここは尾根道から少し入ったところにある絶景のポイント。階段を上った神社の前が開けていてここからの景色が実に凄い。「一目千本」と言われる絶好のポイント。中千本から上千本が一目で見渡せる。これを見て初めて「あーこれが吉野なんだ」と実感できた。

1104160123_convert_20110421225152.jpg

 吉水神社は蔵王堂の塔立であった。役行者が開基。日本最古の書院。1185年義経・弁慶・佐藤が逃亡途中立ち寄る。静御前とここで別れた。1336年後醍醐天皇の御座所であった。1594年豊臣秀吉が吉野花見を開きここを本陣とした。京都の嵐山、保津峡の地名はここ吉野の地名を名づけた。

1104160127_convert_20110421225313.jpg

 全員そろったところで蔵王堂に向かう。金峯山寺蔵王大権現堂が正式の名称。全国の修験道(山伏)の総本山。金峯山寺は役行者が開祖。蔵王堂は68本の柱に自然木(杉、松、欅、山つつじ等)を使っている。蔵王堂は木造建築で奈良の東大寺大仏殿に次ぐ大きさである。何度も火災にかかりその都度復興されてきましたが、1348年に高師直の兵火にかかった時には、その再建に実に60年余りも要しました。1586年にも失火によって焼失し、現在の蔵王堂は1592年に復興されたものです。


1104160131_convert_20110421225418.jpg

 金峯山寺の仁王門、右に行き本坊を過ぎると台地がある。ここが嘗て吉野の朝廷(南朝)が営まれていた皇居の跡です。1336年京都の花山院をひそかに逃れた後醍醐天皇は、一旦吉野に入ってから吉水院に身を寄せ仮の皇居とされましたが、手狭なためこの地を皇居とされました。以後、南北朝が合体する1392年までの57年間を南北朝と呼ぶようになりました。

スポンサーサイト



 HOME